大恐慌その歴史と解説

資本主義経済では、利潤追求を追求して大量の商品を生産する一方、
人件費を押さえようとするため生産の増大に対して消費が伴わず、商品の過剰生産が起こり、
価格暴落、破産、失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずることがある。それが恐慌である。


本格的恐慌は1825年英国に始まった。
その後1857年には欧米を包括する未曾有の規模で恐慌が生じた。以来、ほぼ8〜12年の周期で起こり、
独占資本主義段階に入ってからはその深刻さと持続期間も増大している。
恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが、これら設備の耐久期間が恐慌の周期となっている。

恐慌の中でも1929年〜1933年、米国に始まり全資本主義諸国に波及したものは史上最大規模で,
これを特に「世界大恐慌」または単に「大恐慌」と呼ぶ。
大恐慌が資本主義諸国を世界的規模で連鎖的に襲う恐慌となった要因として、この時代には資本主義の発展に伴い、
国際分業と貿易を通じた世界各国の結びつきが強まっていたことが挙げられる。
直接の原因としては、ヨーロッパにおける過大投資と投機熱による生産過剰が挙げられる。

第2次大戦後の1973年以降数年にわたるスタグフレーションと呼ばれる長期世界不況は、1930年代恐慌に次ぐ大不況とされている。



 年表

1929年10月24日  暗黒の木曜日(ブラック・サースデイ)
 ニューヨーク、ウォール街の株式市場で株価の大暴落が発生。
 寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ、午前11時には売り一色に。
 そこでウォール街の大手株仲買人たちが協議、買い支えを行うことで合意。
 このニュースで相場は値を戻し、数日間は平静を保つ。

1929年10月29日  悲劇の火曜日

 実際に激しい暴落を演じたのはこの日。
 投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始める。


1930年
 恐慌はヨーロッパをはじめ世界各国に波及


1931年  フーヴァー・モラトリアム
 米大統領フーヴァーは戦債・賠償の支払い停止を発表
 この頃から世界大恐慌は単なる経済不況ではなく金融パニックの様相を呈する。
 各国からは資本が続々と引き上げ、金の流出が続く。


1931年9月21日
 イギリスはポンドと金の兌換を停止(金本位制の放棄)
 その後金本位制を放棄する国が続出、国際的な信用秩序としての金本位制度は停止。


1932年後半から1933年春
 世界大恐慌のピーク。
 1929〜1932年の間に世界貿易は70.8%も減り、失業者は3000〜5000万人に達し、国民所得は40%以上減少。
 米国では株価は80%以上下落し、1929年〜1932年に工業生産は平均で1/3以上低落し、
 1200万人に達する失業者を生み出した。これは全労働者の4分の1に当たる(失業率25%)。
 閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止。


1932年7月
 ドイツ国会選挙でナチスが第1党、共産党が第2党に。


1932年7〜8月  オタワ会議
 イギリス連邦は域外輸入品に対して高い関税を掛けることを決定。
 →フランス、アメリカなども封鎖的な経済圏を作り始め、世界経済はブロック化の方向へ。